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先週公開『龍三と七人の子分たち』評(ミヤ)

 おひさしぶりです。ミヤです。今年の2月からは放浪していて映画は全く観ず、パソコンにもほとんど触らず、このブログから遠く離れた生活を送っていました。そんな2、3月でしたが4月から新しい生活が始まり、また映画も観るようになりました。最近の映画だと、『アメリカンスナイパー』と『はじまりのうた』がダントツに良かったのでお勧めです。もうほとんど上映していませんが機会があれば是非です。

 ということで、久々のこのブログ。上の二つの作品を観たときは、それについて書こうと思って少し準備したりしたのですが、先週末に公開した映画で最高に良い作品に出会うことができたので、それについて書こうと思います。

 ズバリその作品は『龍三と七人の子分たち』です。

 

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 言わずもがなの北野武監督最新作。先週の金曜日25日からの公開で、先週末25日~27日の興行ランキングでは7位とそれなりに健闘しています。

 しかしこの作品、北野作品ファンにはあまりウケが良くないようで…

 「中身の無いただのコメディ。そんな北野作品観たくない」とか、さらには「ギャグがつまらなくて冷めてしまう」などといったレビューが見受けられます。また肯定的な人もギャグ映画レベルで「単純に面白かった」と褒めているように見受けられます。まあまだ公開したてなので、何とも言えませんが。

 正直、僕は北野武監督作品を数えるほどしか観ていないので、他の北野武監督作品と比べてどうこう言えないため、上のような意見には何か申すことはほとんどできません。普段なら何かの作品について書くとき、同じ監督の作品を観てから書こうとします(例えばこの映画、よく比較されているのは同じくコメディ映画とされている『みんな~やってるか!』。これも僕は観れていません。)が、本当に良い作品だったので今回はただただしっかり劇場上映している内に文章を公開したいと思って書いています。(とても優れた作品評が出るより先に何か言っておきたい、という打算もあります笑)

 

 この映画のストーリーは以下のようなものです。本当に何も情報を入れないで観に行きたいという人はここまでにしてください。ただ、「ただのギャグ映画」と言われているように、特にネタバレ等があるわけではありません。

(予告編)


映画『龍三と七人の子分たち』予告編 - YouTube

 

(あらすじ)

元ヤクザの龍三は、息子夫婦と暮らしている。そこで龍三は、刺青が目立つ等といった理由で家族から厄介者として扱われている。

トラブルを起こし、家を出ることになった龍三は、かつてのヤクザ仲間を呼び、組を再結成(「一龍会」)する。そして、昔仕切っていた土地で幅を利かせている元暴走族の若者集団(「京浜連合」)を倒すために活動を開始する。ちなみにこの京浜連合は警察とも上手く付き合っていて、逮捕されていない。

その最中、一龍会の仲間の一人が殺されてしまい、仇討ちのために一龍会は京浜連合のビルに乗り込み戦う。ポルシェに乗って逃げる京浜連合、老人パスで乗車したバスをジャックして追いかける一龍会。抗争の末に、警察が来てどちらの組も「全員逮捕―!」(予告編のシーン)と御用になっておしまい。

 

 こんな映画です。予告編で北野武演じる刑事が「全員逮捕―!」というシーンがラストです。だから本当にネタバレとかを気にする映画ではありません。

 

 ネタバレなど無いと言ったように、そして多くの人が言うように、この映画はただただ一瞬一瞬のお笑いが積み重なっている映画です。お笑いの質としてもただのシチュエーションコントです。一例を挙げてみると、龍三と京浜連合のファーストコンタクトの場面。オレオレ詐欺をしている京浜連合の一味とのふざけたやり取りが行われます。ここでは、「もしオレオレ詐欺でカモにしようとした相手の老人が元ヤクザだったら…」というシチュエーションを作り上げて笑いが起きます。またある場面では、ひょんなことから龍三がヤクザ時代の知人の女性の服を着て同性愛者の集う夜の通りを歩くことになります。これも「もし強面の元ヤクザが、女装してそういう繁華街を歩いたら…」というシチュエーションコントです。

 この映画では、本当にくどいほど、元ヤクザという設定や強面という設定を活かして、笑いの起こり得るシチュエーションを作ることに徹底しています。

 なので、この一辺倒の笑いに対して冷めてしまう人もいて当然だとも思います。

 しかし上の設定、端的に言えば僕の笑いのツボでした。劇場でずっと笑っていました。この「笑い」の時点でダメな人には、これから先に僕が「笑い」以外の部分で作品をどう絶賛しようが、受け付けない映画かもしれません。

 北野監督も爺さんだし、若者の撮り方にリアリティを失ってしまう過剰な部分があるかもしれない、もしくはニュース番組での少しズレたボケ方を見ていると、コメディ映画なのに全然ウケない、観ているこっちが気まずくなるような映画かもしれない等と僕も大いに心配だったのですが、そんなこと全くなかったです。定期的に大きな笑いを持ってくるあたり、リズムのいい漫才を見ているような映画で、最高でした!!

 

 

 ……と今回のブログ、流石にここで終わりではありません。これ以降、この作品の「笑い」以外の部分の魅力について書いていきたいと思います。ただ、ここからは僕の捉え方が大いに入ってくるので、これから観る可能性があって気になってしまう人はもしかしたら読まないほうが良いかもしれません。

 

 上のような単発的なシチュエーションコントが繰り返されるこの映画ですが、僕がこの作品を観て、一番に惹かれたのは「笑い」と「皮肉」と「主張」がとてもバランス感覚良く織り込まれているということです。本当に良質なブラックコメディ映画を観た、と思いました。

 では確認していきます。
 「笑い」については先ほど述べたとおりです。もうこの映画、傑作コント集と言っても過言ではありません。しかし傑作コントをやり続けながら、「殺された仲間の仇を討ちに行く」というヤクザ映画の鉄板ストーリーを展開している時点で既に凄いことだと思います。

 

 次に「皮肉」と「主張」についてです。

 この映画には皮肉が散りばめられています。例えば、オレオレ詐欺や布団を買わせることで老人を騙す若者が登場します。このままではこの映画は、「最近の若者は老人を尊敬するどころか、カモにしている」というある種ステレオタイプとも言える「主張」をしていると受け取られかねません。しかし、この映画に出てくる老人、彼らもダメなのです。一龍会のメンバーの一人は誰彼かまわず隙あれば寸借詐欺を試みます。またこの人物、孫娘を水商売で働かせてお金をもらっています。もう上の詐欺グループと同等かそれ以上です。京浜連合の中にいる歳のいった男も、障がい者のふりをして貸した金以上のお金をむしり取るという商売をしています。このように、一歩間違えれば「主張」と捉えられそうな部分を、毎回多面的に描くことで、作品がある「主張」をしているとして回収されてしまうことを回避しているのです。そして、「どっちもロクでもねぇな」という「皮肉」の籠った展開、演出を重ねていくのです。今述べた例のように詳しくは書きませんが、ほかにも「父をないがしろにする息子」と「子をないがしろにする父」を描いてみたり、「思想のない右派っぽい人」と「批判するだけの左派っぽい人」を登場させたりしています。(対立項ではありませんが、まさに皮肉っぽい小道具で言えば「頻繁に使わないのに買ったワンボックスカー」というのも物語を進める上で重要な役割を果たします。)

 

 このように、シチュエーションコントを成立させつつ、さらにある「主張」と捉えられてしまうことを避けつつ(というか避けないと「笑い」になりません)、しかし「皮肉」たっぷりな毒を吐きながら、仇討ちの物語が進んでいくのです。爺さんが暴れる粗雑なコメディ映画だと捉えられがちですが、とても繊細なバランスの上に成立しているのです。

 

 さらに、むしろ「主張」と捉えられてしまうことを避けるために、「笑い」を抑えているとすら思えてしまう場面もありました。例えば、一龍会のメンバー(元特攻志願兵!)がセスナをジャックして、日本にいる米軍の空母へと突っ込んでいくシーン。こう書くと物凄く過激な映画みたいですね…。この場面、結局米軍の空母に着陸して気まずい雰囲気になる、というオチがついているのですが、確実に突っ込ませたほうが無茶苦茶で面白いです。というか、北野武監督の頭の中では突っ込ませていたはずです。北野武監督の映画はあまり観ることができていないので僕の勘違いかもしれませんが、彼は思想云々ではなく“破壊(的な笑い)”を好む人間なはずだからです。

 しかし、ここで元特攻志願兵を日本にいる米軍の空母に突っ込ませたりしたら、どうなるでしょうか。「笑い」では済まされない、という批判が確実に飛んでくるでしょう。北野武は、それを考えて彼にとっては「笑」えたはずの展開を止めたはずです。(文化庁文化芸術振興費補助金を貰っているから、というのもあるかもしれませんが笑)

 

 こう書くとなんだか過激だった北野武監督が自主規制して、誰からも批判の来ない「笑い」を生むことに徹したように思えます。でも僕にはそれも違うと思いました。

 ここまで述べてきたように、ステレオタイプな「主張」を排除して、政治的に見られてしまう部分に対しては「笑い」を抑えてまで気を使っている、そんな映画ですが、僕には北野武ははっきりとある「主張」をしていると感じました。むしろ、ここまで述べてきたような気の使いようは、他の「主張」だと誤って捉えられないように、という思惑もあったのではないかとすら思えました。

 

 北野武はそれを隠していません。朝日新聞のインタビューで以下のように言っています。


 「(ジイさんは、)もっと精神的に不良になった方がいいよ。家族から「いいおじいさん」と呼ばれてるようじゃいけない。「早く死なねえかな、あのジジイ」と言われるくらいでないと。死んだ時に「やっとくたばりやがったか」って言われるようなね。そんなジイさんの方が元気があっていいよね。」

(『朝日新聞』,2015.4.22朝刊「北野武監督、ジイさんを撮る『年寄りよ、不良になれ』」;http://www.asahi.com/articles/ASH4P55PVH4PULZU008.html

 

 爺さん頑張れ、気合入れろ、「主張」はそれだけです。

 では、爺さんが好き勝手生きてみたらどうなると北野武監督は思っているのでしょうか。すこし僕なりの北野武の考え方を入れ込むと、彼は本当は、爺さんだけじゃなくて人間みんな遅かれ早かれどうせ死ぬんだから頑張れ、気合入れろ、ということを思っていると思います。しかし、ほとんどの場合、爺さんの方が早く死にます。「それなのに何してんだ」という意味で、北野武の「主張」の矛先がより爺さんたちの方に向いているのだと思います。決して爺さんの行いを見て若者が育つから爺さんしっかりしろ、という意味ではないことに注意しないといけないと思います。

 つまり、爺さんが好き勝手生きたところで社会が良くなるとか、若者がしっかりするとかそんなことは微塵も思っていないはずなのです。では、どうなると考えているのでしょうか。

 北野武演じる刑事は、ラストシーンで一龍会だけでなく今まで捕まえなかった京浜連合のメンバーたちをも逮捕します。なぜ逮捕したのでしょうか。「笑い」に隠れていますが、上の「主張」を鑑みると実はここにしっかりとカタルシスがあるのです。

 それまで刑事は一龍会に対して、「もう歳なんだからあんまり派手なことするなよ」「今はヤクザって名乗るだけで逮捕できるんだから」といったように諭していました。その一龍会が騒ぎを起こしたのだから、一龍会だけを逮捕すれば良いはずです。しかし刑事は京浜連合も逮捕します。なぜ逮捕したのか、僕はこう思います。

 刑事は、爺さんたちのエネルギッシュな姿を見て、なんだかちゃんと仕事しようと思ったのです。この「なんだか」感が絶妙です。爺さんの反乱にあからさまに触発されるわけではなく、ただ生きたいように生きてみた爺さんたちを見て、「なんだか」単にこれまでの関係を“破壊”したくなったのです(この意味ではしっかり北野武っぽさが詰まっているように思うのです!)。その結果の「全員逮捕―!」なわけです。「もうすぐ死ぬんだから大人しくしてないで、生きたいように生きてみればいいじゃん、そしたら『なんだか』何かが起きるかもよ。例えばこんな話はどう?」僕は、このラストシーンを観て北野武にそんなことを言われているような気になりました。そんな風に観ると、最後のシーンは爺さんたちが好き勝手やったからこそ起きたちょっとした奇跡のように思えてきます。

 爺さんが好き勝手生きてみたらどうなるか?物語の結末をどう受け取るかは様々にあり得るとは思いますが、少なくともここまで「笑い」続けいていた僕には、爺さんが好き勝手生きたら「これくらいの愉快なことは起きるかもしれないな」と思わされてしまいました。だからこの映画はコメディだからこそしっかりと「主張」が昇華されているし、それまで「笑い」続けていた、という自分の反応がこの物語に対する答えになってしまっているのです。

 精一杯に好き勝手やった人間が引き起こす騒動は愉快だっただろ、ちょっとくらい無茶苦茶してみても良いんじゃない?それでも孫くらいは好きでいてくれるよ(龍三のことを散々のけ者にする息子夫婦の家族の中で、孫だけが彼を好きでいて「早く帰ってきてほしい」と言うシーンがある)、爺さんたちを集めてこんな無茶苦茶な映画を作った北野武の、そんな人生観に思わず「笑い」で応えてしまっている、そんな映画だと思いました。