呆れるほどに痛かった!『百円の恋』
どうも、今回の担当はケンです。今回はこんな映画待ってました!って映画を紹介したいと思います。
その映画は昨年末から公開され現在も東京を中心に公開されている『百円の恋』です!
この映画は周南「絆」映画祭・第1回松田優作賞という脚本賞のグランプリ作品で、そこから映画化された作品だそうです。また2014年のキネマ旬報ベストテンの8位にも選ばれています(このベストテンが発表される数週間前に公開されたにも関わらず)。
個人的に本当に大好きな映画で、まだ公開されているところもあるということなのでブログに取り上げることにしました!
この映画、タイトルの『百円の恋』だけ聞くと恋愛映画なのかなと思うかもしれませんが ” 前半はダメ人間のオンパレードでコメディの印象が強く、後半はなぜかガチのボクシング映画に変貌します。笑
何言ってるのかわからないと思いますが、見ればわかります。ダメ人間の本気が見れる映画。それが『百円の恋』です。
『百円の恋』あらすじ
30歳過ぎても実家に寄生し働かず文句ばかり垂れるダメ人間イチコ(安藤サクラ)。妹と大喧嘩し実家を飛び出し百円ショップの深夜営業にありつくが、そこは底辺人間たちの巣窟だった。そんなイチコの唯一の楽しみは帰り道のジムでストイックに練習をするボクサーの狩野(新井浩文)を覗き見すること。狩野のボクシングの試合を見たことでボクシングに興味を持ち、なんとなくボクシングを始めることになるが・・・。
予告編にもある通り、上のあらすじからイチコのボクシングの試合に向かって話が進んでいきます。この試合にイチコがどういう気持ちで挑むのかというのを映画で見ていただければなと思います。
そしてこの作品の魅力はなんといっても主演の安藤サクラ。安藤サクラの演技がこの映画を退屈なものにせず、最後の試合を最高に盛り上げてくれます。やはりこの試合がこの映画のクライマックスであり、安藤サクラの全力の演技に重い重い一撃をくらわされること間違いなしです。
ここからは、ダメ人間のイチコがなぜ後半にロッキー化しボクシングの試合に出場するのかについて書いていきたいと思います。
居場所をなくしたダメ人間
イチコは32歳になっても、ずっと家に篭っていたので家族以外と関わる機会がありませんでした。両親はそんなイチコをしっかりと叱ることができません。
つまりイチコの堕落に慣れた人間としか触れあっていなかったわけです。しかし、そんなイチコに現実を突き付けたのが離婚して実家に戻ってきた妹でした。
実家の弁当屋も手伝わず、作ってもらった料理を不味いと言い、歯医者に行くのも親にせかされる、そんな堕落しきったイチコを妹は認めませんでした。
妹と大喧嘩し、ついに親にも出ていくように言われたイチコは唯一の居場所をなくしました。そして実家に居られなくなったイチコは深夜の百円ショップで働くことになります。そこにはある意味、今のイチコの写し鏡のような、いやむしろイチコの未来の姿のような人間たちが集結していました。気を病んで放心状態になっている人、欲望を満たすためだけに動く人、自己中心的にしか動かない人、自分をあきらめている人、追い込まれ周囲に当たる人。
ただイチコはもとより自分はダメ人間だと諦めているので、”まあ自分を雇う職場なんてこんなもんでしょ”くらいにしか思っていません。しかし、この無気力・無関心なイチコが唯一興味を示したのが、百円ショップの常連で、ジムでストイックに練習をするボクサー狩野でした。
この映画の主題は「互いに認め合う」こと
イチコは狩野に試合のチケットを渡され、狩野のボクシングの試合を見に行きます。
そしてあるシーンに惹きつけられます。
それはラウンドが終わる時に選手が互いの肩をたたき、称え認め合う姿です。今まで死んだ魚の目をしていたイチコの目に光がさしました。
そしてイチコは気付くと吸い寄せられるようにジムの前に立っていました。ジムの会長に出会い、ボクシングのジムに通うになります。
イチコはボクシングをすることで、あの「互いに認め合い、他者により自分の存在を確かめる」ような境地に辿りつける気がしたのです。
始めたはいいものの、イチコはそこまでボクシングに身が入りません。
それは成り行きで同棲することになったボクサー狩野が家にいるからです。狩野が自分の部屋にいてくれるということを「認められている」「自分がいる意味」ということに勝手に置き換えているからです。
しかし、そんな狩野は早々と別の女に乗り換え逃げてしまうのです。イチコはついに「誰にも認められていない」「自分の居場所がない」ということに直面します。
ここから完全に安藤サクラ版『ロッキー』の始まりです。笑
イチコはジムに行き、死ぬ気でトレーニングに励み、会長に試合をさせてほしいと懇願します。イチコが憧れ、魅せられたあのステージへ、自分の居場所を求めて突き進む姿に思わず強く手を握ってしまいます。
どうせ百円程度の女。だけど、私を認めろ!!!
という叫びが聞こえてくるような試合。
相手に当てたのはたったの一発。しかし、会場に来ていた狩野や妹の表情を見れば、その一発で十分でした。
ボコボコにされたイチコは対戦相手に「ありがとう」といい、相手も笑顔でイチコの肩をたたきます。
イチコはついに互いに認め合い、自分の居る場所を確認したのです。
試合後、会場の外にいた狩野の前でイチコは号泣してしまいます。狩野はイチコを認め、一緒に歩いていくところで映画は終わります。
この作品はありのままの自分を受け止め、自分の存在をボクシングの試合にかけた。
そういう映画だったんじゃないかと僕は思います。
そしてエンディング曲である「百八円の恋」:(クリープハイプ)。
これがかなりガツンと心にきました。
もうすぐこの映画も終わる
こんな私のことは忘れてね
これから始まる毎日は
映画になんかならなくても
普通の毎日でいいから
あ、これ映画なんだなって。笑
そりゃ映画なんだけど。
この曲、イチコのことを歌ってるようで、見てる自分たちのことを歌ってるようにもとれると思うんですよ。
この映画を見てると、イチコのたくさんあるダメな部分を笑って、ある意味、神様目線で現実世界にいそうなイチコを応援すると思うんです。
それであのイチコが最後に一発当てた!良くやった!って感動するんですけど、
堕落しきった生活を送るイチコが一歩踏み出す姿はやはり映画だなと。
映画にすらならない自分がイチコを笑って、応援してたんだなって思うと、
とてつもなく重い一発をくらいます。
痛くて痛くてしょうがない。そんな映画。『百円の恋』おススメです。
ケン (@90matsu)2015.5.20
先週公開『龍三と七人の子分たち』評(ミヤ)
おひさしぶりです。ミヤです。今年の2月からは放浪していて映画は全く観ず、パソコンにもほとんど触らず、このブログから遠く離れた生活を送っていました。そんな2、3月でしたが4月から新しい生活が始まり、また映画も観るようになりました。最近の映画だと、『アメリカンスナイパー』と『はじまりのうた』がダントツに良かったのでお勧めです。もうほとんど上映していませんが機会があれば是非です。
ということで、久々のこのブログ。上の二つの作品を観たときは、それについて書こうと思って少し準備したりしたのですが、先週末に公開した映画で最高に良い作品に出会うことができたので、それについて書こうと思います。
ズバリその作品は『龍三と七人の子分たち』です。
言わずもがなの北野武監督最新作。先週の金曜日25日からの公開で、先週末25日~27日の興行ランキングでは7位とそれなりに健闘しています。
しかしこの作品、北野作品ファンにはあまりウケが良くないようで…
「中身の無いただのコメディ。そんな北野作品観たくない」とか、さらには「ギャグがつまらなくて冷めてしまう」などといったレビューが見受けられます。また肯定的な人もギャグ映画レベルで「単純に面白かった」と褒めているように見受けられます。まあまだ公開したてなので、何とも言えませんが。
正直、僕は北野武監督作品を数えるほどしか観ていないので、他の北野武監督作品と比べてどうこう言えないため、上のような意見には何か申すことはほとんどできません。普段なら何かの作品について書くとき、同じ監督の作品を観てから書こうとします(例えばこの映画、よく比較されているのは同じくコメディ映画とされている『みんな~やってるか!』。これも僕は観れていません。)が、本当に良い作品だったので今回はただただしっかり劇場上映している内に文章を公開したいと思って書いています。(とても優れた作品評が出るより先に何か言っておきたい、という打算もあります笑)
この映画のストーリーは以下のようなものです。本当に何も情報を入れないで観に行きたいという人はここまでにしてください。ただ、「ただのギャグ映画」と言われているように、特にネタバレ等があるわけではありません。
(予告編)
(あらすじ)
元ヤクザの龍三は、息子夫婦と暮らしている。そこで龍三は、刺青が目立つ等といった理由で家族から厄介者として扱われている。
トラブルを起こし、家を出ることになった龍三は、かつてのヤクザ仲間を呼び、組を再結成(「一龍会」)する。そして、昔仕切っていた土地で幅を利かせている元暴走族の若者集団(「京浜連合」)を倒すために活動を開始する。ちなみにこの京浜連合は警察とも上手く付き合っていて、逮捕されていない。
その最中、一龍会の仲間の一人が殺されてしまい、仇討ちのために一龍会は京浜連合のビルに乗り込み戦う。ポルシェに乗って逃げる京浜連合、老人パスで乗車したバスをジャックして追いかける一龍会。抗争の末に、警察が来てどちらの組も「全員逮捕―!」(予告編のシーン)と御用になっておしまい。
こんな映画です。予告編で北野武演じる刑事が「全員逮捕―!」というシーンがラストです。だから本当にネタバレとかを気にする映画ではありません。
ネタバレなど無いと言ったように、そして多くの人が言うように、この映画はただただ一瞬一瞬のお笑いが積み重なっている映画です。お笑いの質としてもただのシチュエーションコントです。一例を挙げてみると、龍三と京浜連合のファーストコンタクトの場面。オレオレ詐欺をしている京浜連合の一味とのふざけたやり取りが行われます。ここでは、「もしオレオレ詐欺でカモにしようとした相手の老人が元ヤクザだったら…」というシチュエーションを作り上げて笑いが起きます。またある場面では、ひょんなことから龍三がヤクザ時代の知人の女性の服を着て同性愛者の集う夜の通りを歩くことになります。これも「もし強面の元ヤクザが、女装してそういう繁華街を歩いたら…」というシチュエーションコントです。
この映画では、本当にくどいほど、元ヤクザという設定や強面という設定を活かして、笑いの起こり得るシチュエーションを作ることに徹底しています。
なので、この一辺倒の笑いに対して冷めてしまう人もいて当然だとも思います。
しかし上の設定、端的に言えば僕の笑いのツボでした。劇場でずっと笑っていました。この「笑い」の時点でダメな人には、これから先に僕が「笑い」以外の部分で作品をどう絶賛しようが、受け付けない映画かもしれません。
北野監督も爺さんだし、若者の撮り方にリアリティを失ってしまう過剰な部分があるかもしれない、もしくはニュース番組での少しズレたボケ方を見ていると、コメディ映画なのに全然ウケない、観ているこっちが気まずくなるような映画かもしれない等と僕も大いに心配だったのですが、そんなこと全くなかったです。定期的に大きな笑いを持ってくるあたり、リズムのいい漫才を見ているような映画で、最高でした!!
……と今回のブログ、流石にここで終わりではありません。これ以降、この作品の「笑い」以外の部分の魅力について書いていきたいと思います。ただ、ここからは僕の捉え方が大いに入ってくるので、これから観る可能性があって気になってしまう人はもしかしたら読まないほうが良いかもしれません。
上のような単発的なシチュエーションコントが繰り返されるこの映画ですが、僕がこの作品を観て、一番に惹かれたのは「笑い」と「皮肉」と「主張」がとてもバランス感覚良く織り込まれているということです。本当に良質なブラックコメディ映画を観た、と思いました。
では確認していきます。
「笑い」については先ほど述べたとおりです。もうこの映画、傑作コント集と言っても過言ではありません。しかし傑作コントをやり続けながら、「殺された仲間の仇を討ちに行く」というヤクザ映画の鉄板ストーリーを展開している時点で既に凄いことだと思います。
次に「皮肉」と「主張」についてです。
この映画には皮肉が散りばめられています。例えば、オレオレ詐欺や布団を買わせることで老人を騙す若者が登場します。このままではこの映画は、「最近の若者は老人を尊敬するどころか、カモにしている」というある種ステレオタイプとも言える「主張」をしていると受け取られかねません。しかし、この映画に出てくる老人、彼らもダメなのです。一龍会のメンバーの一人は誰彼かまわず隙あれば寸借詐欺を試みます。またこの人物、孫娘を水商売で働かせてお金をもらっています。もう上の詐欺グループと同等かそれ以上です。京浜連合の中にいる歳のいった男も、障がい者のふりをして貸した金以上のお金をむしり取るという商売をしています。このように、一歩間違えれば「主張」と捉えられそうな部分を、毎回多面的に描くことで、作品がある「主張」をしているとして回収されてしまうことを回避しているのです。そして、「どっちもロクでもねぇな」という「皮肉」の籠った展開、演出を重ねていくのです。今述べた例のように詳しくは書きませんが、ほかにも「父をないがしろにする息子」と「子をないがしろにする父」を描いてみたり、「思想のない右派っぽい人」と「批判するだけの左派っぽい人」を登場させたりしています。(対立項ではありませんが、まさに皮肉っぽい小道具で言えば「頻繁に使わないのに買ったワンボックスカー」というのも物語を進める上で重要な役割を果たします。)
このように、シチュエーションコントを成立させつつ、さらにある「主張」と捉えられてしまうことを避けつつ(というか避けないと「笑い」になりません)、しかし「皮肉」たっぷりな毒を吐きながら、仇討ちの物語が進んでいくのです。爺さんが暴れる粗雑なコメディ映画だと捉えられがちですが、とても繊細なバランスの上に成立しているのです。
さらに、むしろ「主張」と捉えられてしまうことを避けるために、「笑い」を抑えているとすら思えてしまう場面もありました。例えば、一龍会のメンバー(元特攻志願兵!)がセスナをジャックして、日本にいる米軍の空母へと突っ込んでいくシーン。こう書くと物凄く過激な映画みたいですね…。この場面、結局米軍の空母に着陸して気まずい雰囲気になる、というオチがついているのですが、確実に突っ込ませたほうが無茶苦茶で面白いです。というか、北野武監督の頭の中では突っ込ませていたはずです。北野武監督の映画はあまり観ることができていないので僕の勘違いかもしれませんが、彼は思想云々ではなく“破壊(的な笑い)”を好む人間なはずだからです。
しかし、ここで元特攻志願兵を日本にいる米軍の空母に突っ込ませたりしたら、どうなるでしょうか。「笑い」では済まされない、という批判が確実に飛んでくるでしょう。北野武は、それを考えて彼にとっては「笑」えたはずの展開を止めたはずです。(文化庁文化芸術振興費補助金を貰っているから、というのもあるかもしれませんが笑)
こう書くとなんだか過激だった北野武監督が自主規制して、誰からも批判の来ない「笑い」を生むことに徹したように思えます。でも僕にはそれも違うと思いました。
ここまで述べてきたように、ステレオタイプな「主張」を排除して、政治的に見られてしまう部分に対しては「笑い」を抑えてまで気を使っている、そんな映画ですが、僕には北野武ははっきりとある「主張」をしていると感じました。むしろ、ここまで述べてきたような気の使いようは、他の「主張」だと誤って捉えられないように、という思惑もあったのではないかとすら思えました。
北野武はそれを隠していません。朝日新聞のインタビューで以下のように言っています。
「(ジイさんは、)もっと精神的に不良になった方がいいよ。家族から「いいおじいさん」と呼ばれてるようじゃいけない。「早く死なねえかな、あのジジイ」と言われるくらいでないと。死んだ時に「やっとくたばりやがったか」って言われるようなね。そんなジイさんの方が元気があっていいよね。」
(『朝日新聞』,2015.4.22朝刊「北野武監督、ジイさんを撮る『年寄りよ、不良になれ』」;http://www.asahi.com/articles/ASH4P55PVH4PULZU008.html)
爺さん頑張れ、気合入れろ、「主張」はそれだけです。
では、爺さんが好き勝手生きてみたらどうなると北野武監督は思っているのでしょうか。すこし僕なりの北野武の考え方を入れ込むと、彼は本当は、爺さんだけじゃなくて人間みんな遅かれ早かれどうせ死ぬんだから頑張れ、気合入れろ、ということを思っていると思います。しかし、ほとんどの場合、爺さんの方が早く死にます。「それなのに何してんだ」という意味で、北野武の「主張」の矛先がより爺さんたちの方に向いているのだと思います。決して爺さんの行いを見て若者が育つから爺さんしっかりしろ、という意味ではないことに注意しないといけないと思います。
つまり、爺さんが好き勝手生きたところで社会が良くなるとか、若者がしっかりするとかそんなことは微塵も思っていないはずなのです。では、どうなると考えているのでしょうか。
北野武演じる刑事は、ラストシーンで一龍会だけでなく今まで捕まえなかった京浜連合のメンバーたちをも逮捕します。なぜ逮捕したのでしょうか。「笑い」に隠れていますが、上の「主張」を鑑みると実はここにしっかりとカタルシスがあるのです。
それまで刑事は一龍会に対して、「もう歳なんだからあんまり派手なことするなよ」「今はヤクザって名乗るだけで逮捕できるんだから」といったように諭していました。その一龍会が騒ぎを起こしたのだから、一龍会だけを逮捕すれば良いはずです。しかし刑事は京浜連合も逮捕します。なぜ逮捕したのか、僕はこう思います。
刑事は、爺さんたちのエネルギッシュな姿を見て、なんだかちゃんと仕事しようと思ったのです。この「なんだか」感が絶妙です。爺さんの反乱にあからさまに触発されるわけではなく、ただ生きたいように生きてみた爺さんたちを見て、「なんだか」単にこれまでの関係を“破壊”したくなったのです(この意味ではしっかり北野武っぽさが詰まっているように思うのです!)。その結果の「全員逮捕―!」なわけです。「もうすぐ死ぬんだから大人しくしてないで、生きたいように生きてみればいいじゃん、そしたら『なんだか』何かが起きるかもよ。例えばこんな話はどう?」僕は、このラストシーンを観て北野武にそんなことを言われているような気になりました。そんな風に観ると、最後のシーンは爺さんたちが好き勝手やったからこそ起きたちょっとした奇跡のように思えてきます。
爺さんが好き勝手生きてみたらどうなるか?物語の結末をどう受け取るかは様々にあり得るとは思いますが、少なくともここまで「笑い」続けいていた僕には、爺さんが好き勝手生きたら「これくらいの愉快なことは起きるかもしれないな」と思わされてしまいました。だからこの映画はコメディだからこそしっかりと「主張」が昇華されているし、それまで「笑い」続けていた、という自分の反応がこの物語に対する答えになってしまっているのです。
精一杯に好き勝手やった人間が引き起こす騒動は愉快だっただろ、ちょっとくらい無茶苦茶してみても良いんじゃない?それでも孫くらいは好きでいてくれるよ(龍三のことを散々のけ者にする息子夫婦の家族の中で、孫だけが彼を好きでいて「早く帰ってきてほしい」と言うシーンがある)、爺さんたちを集めてこんな無茶苦茶な映画を作った北野武の、そんな人生観に思わず「笑い」で応えてしまっている、そんな映画だと思いました。
村から医者がいなくなった!『ディア・ドクター』
第9回ブログ、担当はケンです!
今回取り上げる映画は西川美和監督の『ディアドクター』!
ちょうど無料動画gyaoで無料で公開されていたので、久しぶりに見てみました!
『ディアドクター』は人口一千人、そのほとんどが老人という山あいの小さな村から唯一の医者がいなくなってしまったという話です。
この村の医者である伊野は村中の人から慕われ、村長からは神様や仏様よりも伊野先生の方が大切なんですと評されます。
しかし、その先生は失踪してしまいます。
伊野はなぜ失踪してしまったのでしょうか。
予告編で差し込まれた文章
人は 誰もが
何かになりすまして
生きている
なんだかざわざわしますね。笑
予告編見て興味持った人は是非、本編見てみてください!
と言う事で、ここからはネタバレありで記事を書いていきます。
ーーーーーーーーーーー 見た人向け ーーーーーーーーーーーー
本物と偽物の差は?
失踪した伊野は医師免許を偽造していた偽医者でした。
しかし偽医者である伊野のバックグラウンドを刑事たちと一緒に紐解いていくと、医者の資格とは何なのか、人を助けることには特別な理由が必要なのか、といったことに明確な答えを出せなくなります。
最初伊野を悪人だと決めつけてた節があった刑事たちでさえ最後は何が正しいのか分からなくなっています。
村人や関係者に問いただしても、偽医者の伊野はこの村で三年間しっかりと村の医師としての役目を果たし、伊野を悪く言う人はいなかったからです。
この真偽の疑問にもっとも翻弄されたのは村に二ヶ月間研修に来た研修医・相馬(瑛太)かもしれません。
経営のことばかり考えている医者である父親と患者と向き合う偽医者である伊野
この二人に挟まれ、伊野に本物であってくれと願うように田んぼで探し続ける相馬が思い出されます。
伊野の動機を探る
伊野の動機を良く表すシーンがありました。
製薬会社の営業で、胃潰瘍持ちの斎門(香川照之)
何のために伊野は村人を助けていたのか、
それを聞いた斎門は椅子に座ったまま後ろに倒れ、
刑事さん、これは愛ですか?
僕のことなんか好きなわけないですよね?
それでもその手が出たでしょ。
そんな感じじゃないですかね、たぶん。
刑事たちは斎門に言葉を返せません。
斎門はおそらく一番早くに伊野が偽医者だと確信した人物です。
斎門は製薬会社の営業で、伊野から患者を紹介してもらい顧客を増やしています。
伊野はこの村の医者になる前にトウソウ製薬という会社で働いており、斎門とはいわゆる同業者でした。
おそらく仕事のつてで伊野の正体を知った斎門が話を持ちかけたのでしょう。
二人の関係は「トウソウ製薬の営業の人に会った」と伊野に話して、薬の顧客拡大を迫るシーンにも示されています(
しかし、斎門が伊野の正体を知りながらも胃潰瘍の写真を提供したり、診療所にこない村人に薬を届けたりして、伊野に協力していたのは、営業の面だけではなくて、
そんな彼が言う事が最も伊野の動機を理解しているように思えます。
伊野が村の医者になった経緯
伊野は三年前に村長によってこの村に連れてこられました。
序盤に研修医の相馬が飲みの席で、村長から何度も
伊野先生を連れてきたのはこの私、先生を連れてきたのが最大の功績だ
といったことを言っています。
このシーンから考えると、三年前に
そして伊野が少し助けようと思って動いたことがどんどん連鎖して事が大きくな
伊野と研修医・相馬が二人で話しているシーンでは、
この村が好きでいるわけじゃない、
診療所の医者になって弾がひっきりなしに飛んでくるから打ってい
打ち始めると夢中になって打ってしまっただけだ。
と相馬に吐露しています。
このことからも目の前に次々にやって来る人々に手を差し伸べ続け
手を差し伸べ続けた末の失踪
伊野の失踪の理由を考えます。
物語の序盤で、伊野は村人と向き合う素晴らしい医者で、村人からも賞賛されており、村との関係は非常に良好であることが示されました。
物語の中盤で伊野は
研修医から「伊野先生が医者じゃなかったら誰が医者なんですか」と羨望の眼差しを向けられ
緊張性気胸で運ばれてきた患者への対応で医者の覚悟を問われ
今までになかったことが立て続けに起こり追い詰められてい
伊野はこのプレッシャーに押しつぶされそうになりますが、簡単にはそのプレッシャーから逃れることはできません。
伊野のいる村がしっかり機能しているからこそ、
緊張性肺気胸の手術が終わった後に伊野がエレベーターにのり、その場を去ろうとしたことからも、この状況から逃げたい気持ちが無意識のうちに行動に現れるほど追いつめられていた事が分かります。
さらに伊野は追いつめられている状況でも胃癌である鳥飼さん(八千草薫)に手を差し伸べました。
(鳥飼さんは夫が先に死に村で一人でくらしているおばあさんで、娘たちがやっと仕事や家庭を持って村を出て行ったことから、自分の体調のせいで娘たちに迷惑をかけたくないと伊野に一緒に嘘をついてくれと頼んでいます。)
鳥飼さんの三女で医者のりつ子(井川遥)が帰省してきた時に母の容体を心配して診療所にやってき
しかし彼女が父親の病気に気づいてあげれなかったと後悔していることと、次の帰省が一
診療所にりつ子を留め、伊野は診療所を飛び出します。
ここまでで考えると、伊野がすべてを捨ててでもプレッシャーから逃れたくて失踪したように思えます。
伊野という医者
伊野は本当に責任に耐えきれなくなり失踪したのでしょうか?
斎門が評したように
伊野は誰か困っている人がいたら考える前に体が動く人間
だと思い
りつ子を置いて失踪した時も、鳥飼さんとりつ子の気持ち両方に挟まれて、反射的に二人のために行動したのではないでしょうか。
鳥飼さんは今更村を出るのは気が引け、かといって娘に村に戻ってきてもらうようなことはさせたくないという気持ちが病気と闘う上でネックになっています。しかし、伊野が失踪すれば状況が変わり、りつ子は母親を東京に連れて行こうとするでしょう。
伊野が失踪することが鳥飼さんとりつ子の気持ちの両方を取り持つ最善手だったのです。
伊野は診療所を出て、田んぼにいる鳥飼さんの前で白衣を脱ぎ、医者ではなかったことをそれとなく伝え、伊野の状況を察している斎門に鳥飼さんの胃カメラ写真を渡したことからも、鳥飼さんのことを気遣っていることが示されています。
そしてラストシーンです。
失踪事件のあと、りつ子に連れられ東京の病院に入院した鳥飼さんの
変装しお茶を出しに来た伊野が現れます。
伊野を見る鳥飼さんの表情が戸惑いと驚きから笑顔に変わっていくのを見る
西川美和監督は伊野の行為が良かったのか悪かったのかを明確にしませんでした。
鳥飼さんの病院に行く前に駅でタバコを吸っていた伊野が刑事たちとニアミスしたにも関わらず、刑事たちが気づく事ができないシーンがあり、このシーンからも伊野の行為を裁かずにしておく意図があったように思います。
医者になりすまし、医者に仕立て上げられた伊野。
彼の嘘は許されないと思いますか?
ケン(@90matsu)2015.3.29
バットマンの覚悟と苦悩
映画ブログ第8回!
今回は自分の最も好きなアメコミ作品について取り上げたいと思います!担当はケンです!
この名前を知ってる人は多くはないかも知れません。
しかしバットマンと聞けば映画やコミック、
今回はインターステラーやインセプションで有名なクリストファー・ノーラン監督によるバットマンシリーズについて扱い、ブルース・
バットマンビギンズ
夜はコウモリの格好をしゴッサムシティで悪と闘うヒーロー
昼はゴッサムシティの大財閥ウェインカンパニーの社長、
それがブルース・ウェインです。
どうして彼はこのような2つの顔を持つようになったのでしょうか
ノーラン監督は映画版で初めてブルース・
それが第一作目『バットマンビギンズ』です。
舞台は悪がはびこるゴッサムシティ。犯罪が日常的に起こり、
ブルース・ウェインは幼い頃、
青年になったブルースは両親を殺害した犯人の裁判に出席。
裁判で検事として参加していた幼なじみで、互いに惹かれあっている
復讐に囚われ、
ブルースはゴッサムシティの悪の根の深さを知り、
彼はたびたび小さい頃にコウモリに襲われた記憶を思い出しま
この悪と戦うための修行の中で、自分の内面にある恐怖に打ち勝つ術を学び、
彼自身の恐怖の根元であるコウモリを身にまとい悪に対する恐怖のシンボルとしました。
こうして彼はゴッサムシティに戻り悪と戦うためにバットマンにな
バットマンになって失った自分
ブルースには幼馴染みのレイチェル・ドーズという女の子がいました
(左がダークナイト版レイチェル、右がバットマンビギンズ版レイチェル)
ブルースとレイチェルは惹かれ合っていましたが、
彼女はその間、検事として法を武器に悪と戦っていました。
戻ってきたブルースは昼はプレイボーイ、
彼女の前でのブルース・
ブルースの昼の姿を見て完全に愛想を尽かしたレイチェルに本当の自分は違うと弁解します
ゴッサムシティで起こる奇妙な事件を追っていたレイチェルは悪党
バットマンは「人の本性は行動で決まる」と言い、立ち去ります。
レイチェルはその時はじめてブルースの真の姿を知るのです。
正体を明かしたブルースはレイチェルに交際を申し込みますが、
彼女にとってブルースは昔の愛していたブルースではありませんで
ブルース自身は昔のままの自分を持っていたつもりでした。
昔のブルースはバットマンをやめたときに戻ってくるのだと。
バットマンになって失ったものに悩みながらも、
この苦悩を抱えたまま第二作の『ダークナイト』
~バットマンは選択を迫られる~
ゴッサムシティには新たな悪党が現れました。
バットマンシリーズ最狂最悪の敵、ジョーカーです。(画像左)
また同時に新たなヒーローも登場します。
様々な事件を解決し、
ハービーはゴッサムシティの希望、
レイチェルはそのような彼の一面性に惹かれ彼と付き合いました。
愛する人をとられた形となったブルースはハービーの登場をむしろ
ブルースがバットマンとして守ってきたゴッサムシティはハービー
その考えの先には苦悩からの解放がありました。
しかし、そんな考えはジョーカーによって書き消されます。
ゴッサムシティに忽然と姿を現したジョーカーは金や力などの欲に
彼は自分が楽しむためだけに人を操り、弄び、殺します。
彼の価値観に勝ちや負けは存在しません、
そしてジョーカーの遊び相手として"バットマン"
ジョーカーはゴッサムシティのマフィア組織を簡単に掌握し、
ジョーカーはゴッサムシティを混沌に陥れました。
バットマンが正体を明かさなければ1日に一人市民を殺すとゴッサ
ブルースは市民を守るためにハービーやバットマンビギンズからバットマンに協力している市警の警部補であるゴー
ブルースは続けざまに迫られる選択に即座に答えることができません。
ジョーカーの標的となったハービーは警察によって護送されますが
ブルースはバットマンとして姿を現し、
結果としてジョーカーは警察に捕まりますが、
ジョーカーは尋問の中でも、バットマンに選択を迫ります。
バットマンの愛するレイチェルと家に護送したと思っていたハービ
警察署から向かうとギリギリになる時間でジョーカーはバットマン
バットマンはレイチェルを助けに行き、
ジョーカーはバットマンにわざと違う住所を教えたのです。
レイチェルは間に合わず爆発により亡くなりました。
2つの顔のハービーデント
ハービーデントはレイチェルが死んだことで、壊れてしまいました。
ジョーカーのみならずレイチェルを助けることができなかったバッ
ハービーは今まで何かの選択を迫られた時にコイントスで決め
そのコインは実はどちらも表ですが、悪用はせず、相手を納得させたり尋問にかける時に使用していました。
しかし火傷をおった時にそのコインの半面が焼け、
今まで自分の顔を出して正々堂々と戦ってきたハービーの一面性が
トゥーフェイスはコイントスの結果をもとに次々とレイチェルの死
一方、バットマンはレイチェルの死により手段を選ばすにジョーカーを追
最後にジョーカーが仕掛けた選択は市民自身により事なきを得、
ハービー・デントの堕落は、ハービーの悪の根を正面から絶とうとする姿に希望の光を感じていたゴッサムシティの市民に致命的なダメージを与えかねません。
トゥーフェイスになる前のハービーはゴッサムシティを浄化するために”汚職警官の摘発”を提案していました。しかしその提案はゴードン警部補に濁されてしまいマフィアの摘発を優先されてしまいます。結果として、汚職警官を摘発しなかったことにより、ハービーとレイチェルは誘拐され、レイチェルの死という最悪の結果を引き起こしました。
その報復としてハービーはゴードンとその家族を誘拐します。
愛するものを失う苦しみをゴードンに味わせるために家族をコイン
バットマンはゴードンの息子を助けるためにハービーを突き落とし
『バットマンビギンズ』のころから苦悩していたブルースのバットマンとしての覚悟が最後に試されたのです。
そしてバットマンはゴッサムシティの希望を絶やさないためにハービーが犯した罪をすべて背負い闇に消えてきます。
唯一顔を持たない者、ジョーカー
ブルースウェインもハービーデントも二つの顔を持っていました。しかし、これは人間なら誰でも持っているはずです。特に日本は”本音と建前”の社会と言われるように二つの顔を使い分けることで生きています。
そしてジョーカーは作中で唯一顔を持たない者です。つまり、人間ではありません。
ジョーカーは地震や津波などの天災のようなもので、考える猶予も許さず人間に選択を迫ってきます。一つでも選択を誤れば死が待っているのです。
ブルースやハービー、ゴッサムシティの住人は天災を前に選択を迫られていたのです。
圧倒的な天災を前に、ハービーの正義の心は折れ、ブルースはバットマンビギンズから持ち越した苦悩との決着をレイチェルの死という形で一方的につけられてしまいます。
そしてすべてを背負ったブルースは最終章である『ダークナイトライジング』でこの問題とどのように向き合うのでしょうか。底辺まで落ちきったブルース・ウェインは再び這い上がることができるのでしょうか。
気になる人は是非『ダークナイトライジング』を見て確かめてもらいたいと思います。
それではこのへんで!
ケン(@90matsu) 2015.3.2
想像力を試される、究極のシチュエーションスリラー 映画『ロッジ(LODGE)』の感想
映画ブログ7回目!
本当は2週間前に更新するのが私の役目だったのですが、怠惰な私はここまで更新を引き延ばしてしまいました。
温めたブログはさぞ内容が濃く深いものかと期待する方もいるかもしれませんがそんなことはありませんよ。どちらかというと軽~いです!笑
ブログの構成は前回と同じです。
①こんな人におすすめ(ネタばれなし)
②ざっくり概要(ふんわりネタばれ)
③オガの感想(がっつりネタばれ)
④似たような映画紹介
今回紹介する映画はこちら
ロッジ(LODGE)
①こんな人におすすめ
・ハラハラドキドキしたい人
・ミステリーが好きな人
・作者の意図を深く考えるのが好きな人
・みんなで何か映画を観ようと考えている人
・次にこの人やられるなって予想するのが好きな人
・私とこの映画について議論してくれる人
②ざっくり概要(ふんわりネタばれ)
この映画のキャッチコピーが
「想像力を試される、究極のシチュエーションスリラー」
物語はロッジに宿泊にきた10人が次々と消えていくという単純なもの。
さっきまでそこにいた人がパッと消えてしまう恐怖を楽しむ映画です。
③オガの感想(がっつりネタばれ)
いや~どうでした?笑
ネット上ではいろいろ酷評されてますが、私は好きな映画でしたよ!
我が家で定期的に同僚を集めて映画の上映会をしていて、そこで後輩が借りてきた映画だったので前評判など一切なく真っ白な状態で見れたのがよかったのかもしれません。あと、映画を見ながら、あーでもないこーでもない言いながら見れたのも楽しめた要因かもしれません。
しゃべりながら映画をみるなんてと映画好きの人には怒られるかもしれませんね。笑
ネット上で酷評している人たちはホラー映画だと思って見てる人が多い気がします。ホラー映画としての恐怖は確かに薄い気がしましたが、自己を認識するものは何なのか、存在しているとはどういうことなのか、みたいな哲学的なことを考えることができる人には怖い映画なのではないでしょうか。
ここで哲学的なことを語り出すとおバカさんであることがバレてしまうので、これ以上の深堀りはやめましょう。そもそもまず掘ってもないというね。笑
という訳で、ここ掘れワンワン的な感じで、ワンワンしてるのでみなさん掘ってみて下さい。出てきたものを教えて下さい。ワンワンポイントをあげてみました。
・この季節にしてはロッジ周辺の気温が高いか低いか言ってたけど人が消えることに関係あるの?
・アレックスがノアを外に連れ出した後、ノアは消えたけど、アレックスの手にはノアの血がついていた。そのあと、アレックスが悲観して銃で自殺するも、その時飛び散った血はアレックスと一緒に消えてしまった。ノアは消えても血が残ってたのに、アレックスは消えたら血も残らないのはなぜ?
・虫や鳥も消えてたし、銃で自殺したアレックスの死体も血痕ごと消えていた。なのに、クマやイノシシのはく製はなぜ消えないのか?
・初めてロッジにやってきたとき、テーブルには多くの食べ物が温かい状態で残されてて、多くの人が一気に消えたと思われる。最後の警察も多くの人が一気に消えた。夜は人が消えるのは1人ずつで、昼間は一気に大勢消えてしまうの?
・映画序盤にキッチンカウンターの下の扉に「Help me」と書かれてたけど、なんで扉の裏側に書いてたんでしょう?ただの演出?消えた人は人の目に見えないものの内側とかにいってしまうとか??ジョジョのアナスイのスタンドのダイバーダウン的な!笑
・主人公らしき女が「Don't blink(瞬きしないで)」ってよく言うんだけど、誰かが誰かを認識している時は消えないの?
・なぜ主人公の女は消えないのか?
・多くの人が消える場合ってどちらかというと、自分が消えてしまったってことではないでしょうか。多くの人から認識できない存在になってしまったのが自分ということではないでしょうか。
・ジャックの胸の入れ墨に「みどり(たぶん!)」ってひらがなで掘られてたんだけど、何???笑
概要に、人がただ消えてしまうと書いたのですが、本当にただそれだけでそれ以上のことはないんです。いろいろ考えをこねくり回すのも楽しいんですが、本当は作者は何も考えてなくて、人が消える怖い映画を作りたいくらいにしか思ってないのかもしれないですね。上の疑問が綺麗に消えなさそうなので、本当にそうなのではと思ってしまっています。がしかし、このブログの読者はきっと優秀な方ばかりなので、「そこはこう解釈すればすっきり論理が通るよ」と教えてくれるに違いないと信じてここ掘れワンワンと叫ぶだけで自分では掘らないことにします。丸投げ!!!笑
みなさんキャッチコピーを思い出して下さい。
「想像力を試される、究極のシチュエーションスリラー」
これも丸投げといっても過言ではないでしょう。コピーを付けた人もオチや内容がわからず、想像力が足りないんだと自分自身に言い聞かせるしかなかったのではないでしょうか。
④似たような映画紹介
ミスト
何が起こっているのかわからない点で共通している。わけのわからない恐怖に陥ると人は宗教的なものを信じてしまうところ。。。あと、映画を見終わった時の戦慄が似てる。笑
これも何が起こってるのかわからない系ホラー。途中までのドキドキ感が似てる。この映画にはオチがついてるところがロッジとは少し違うけど。
クライシス
滅亡系の映画。シチュエーションスリラー。得体のしれない何かに怯える。
まったく似たような映画を連想することができませんでした。映画修行の旅は果てしない。。
おやすみなさい。
目の見えない主人公たち『座頭市物語』、『光にふれる』
映画ブログ第6回、担当はケンです!
今回取り上げる映画は『光にふれる』と『座頭市物語』の2作品です!(今回はネタバレといえない程度で抑えてます。)
”座頭市”といえば、若い人はおそらく北野武監督作品の『座頭市』(2003年)を思い出す人が多いでしょう。(香取慎吾が主演した『座頭市 THE LAST』(2010年)や綾瀬はるかが主演した『ICHI』(2008年)もありますが)
この『座頭市』はタップダンスなどのミュージカル要素を取り込んだ意欲作ですが、今回取り上げるのはこのリメイクのオリジナルとなった
勝新太郎主演、座頭市シリーズの第一作目『座頭市物語』(1962年)です!
もう一本は先ほどの『座頭市物語』から50年後の2012年に製作された『光にふれる』(2012年)という台湾映画です!
この2作品は作られた年代、国、作品のジャンルも違いますが1つだけ共通点があります。
それはどちらの作品も主人公が生まれつき盲目であるということです。
『座頭市物語』の主人公、座頭の市は盲目ながら、悪者を切り伏せるヤクザ。
『光にふれる』の主人公、ホワン・ユィシアンは盲目ですがピアニストを目指し大学の音楽科に入学する学生です。
この2作品を見ているうちに
「目が見えない」
ってどういうことだろう?
と考えるようになりました。
例えば
目の見えない人は
・日常生活で、何が出来るのか、または何に困っているのか
・視覚が使えないゆえに他の感覚が秀でているのか
・寝ている時に夢を見るのか
などなど、少し考えるだけでもいろいろな疑問がでてきます。
今回は
・「目が見えない」とは、どういうことなのか
・『座頭市物語』、『光にふれる』では「目が見えない」ということをどのように描いているのか
この二点について書いていきたいと思います!
「目が見えない」とは?
盲目という言葉をgoo辞書でひいてみると
1 目の見えないこと
2 他のものが目に入らず、理性的な判断ができないこと。また、そのさま。「恋は_」
と書いてあります。
1番目の意味はそのまんまですね。
科学的にはどうでしょうか。
まず、目が見えるというのは
眼球を通して入ってくる光を、脳で扱える視覚情報に変換し、外の世界を光で感じることができる
ということです。
目が見えないということは
そのような処理ができないこと
つまり、
外の世界を光で感じることができない
ということです。
通常、人間は外の世界を感じるのに90%以上視覚に頼っていると言われています。
このように視覚に依存している目の見える人間にとって、目の見えない人の感覚を理解することは難しいように思えます。
生まれながらにして盲目の人の世界はどうなっているのでしょうか?
カールトン大(カナダ)の認知科学の准教授であるジム・デイビスは目の見えない人の世界ついて以下のように述べています。
To try to understand what it might be like to be blind, think about how it “looks” behind your head.
目の見えない人の世界を理解したいのであれば、自分の背後を”見る”ことを考えればいい
What Do Blind People Actually See? - Facts So Romantic - Nautilus
自分の背後には確かに目の前に見えている世界と同じ世界があるはずですが、
見ることはできないですね。
言い得て妙な気がしますが、
少し難しい笑
もう少しわかりやすいものはないかと探してみると、盲目の女の子がどのように世界を感じているのかを描いた短編アニメーション『Out of Sight(敲敲)』を見つけました。
国立台湾芸術大学の生徒が卒業制作で作成した作品のようです。
盲目の女の子が見ている世界は決して真っ暗な世界ではないんですね!
これを見るとすごくイメージが掴みやすいです。
このように「目が見えない」ということや、「目の見えない人の世界」についてイメージを掴めてきたところで、そろそろ映画の話題に戻りたいと思います!
座頭市には何が見えている?
『座頭市物語』は全国に指名手配されている盲目の侠客(ヤクザ)である市(いち)が諸国を旅しながら脅威的な抜刀術で悪人と対峙するアクション時代劇です。
作中の時代ははっきりと示されていませんが、座頭市の”座頭”とは室町時代~江戸時代に用いられた盲人の最下位の身分であるらしいので、少なくとも150年以上前の話です。
市は元々”座頭”という身分の専門職であるあん摩(マッサージ)を生業として生きてきました。彼はそういった身分から抜け出し、自分を侮り、蔑んできた「目の見える人間」の鼻を明かすために居合いを極め、ヤクザになったのです。
〈映画〉 座頭市物語 〈予告編〉 Zatoichi - YouTube
『座頭市物語』では、市はある村を訪れます。その村の悪人たちは市が目の見えないことをいいことに、騙してお金を奪おうとしたり、彼の圧倒的な強さを見込んで自分たちの用心棒にしようとしたりします。
しかし、目は見えないものの座頭市は常に相手の思惑を掴み、冷静に物事を見ています。ただ彼は正義のヒーローというわけではなく、あくまでヤクザです。基本的に自分に関係のないことには関わりませんが、座頭市はどういうことを大切にし、何を動機として動くのかが後半に描かれます。
彼は何を求めて諸国を旅しているのでしょうか。座頭市にはどこにいても人間の狡猾さや愚かさのようなものが見えてしまうのかもしれません。
見えていないのはユィシアンだけ?
『光にふれる』は主人公のユィシアンが田舎から出て、台湾の台北にある大学の音楽科でピアノを学ぶために、はじめて一人暮らしをするところから始まります。ユィシアンにとって初めての都会、ユィシアンは道路の真ん中で身動きがとれないところをドリンク店で働いている同世代の女の子シャオジエに助けられます。
そんな彼にはピアニストという夢がありますが、小さいころに優勝したピアノコンクールで「目が見えないから優勝したんだ」という心無い声を受け、彼の夢につながるはずのコンクールに出場することができません。
また彼を助けたシャオジエは、ダンサーになるという夢がありますが、経済的な理由からアルバイトで家計を助けなければならず、大学にもいけません。
彼らは互いに夢を”見る”ということに億劫になり、諦めてしまっています。
彼らは自分の夢から目を背けずに、夢を追いかけることができるのでしょうか?
この映画ではユィシアンの世界の感じ方が緻密に描写されています。
どういう女性が好みなのか(好みの女性の判断基準はなにか)
信号の青をどうやって判断するのか
ダンスなど音だけでは分からないものをどのようにして感じるのか
ユィシアンの世界にふれると、普段感じている世界が新鮮に感じられます。
二つの作品から見えること
最初にgoo辞書引いた「盲目」という言葉に戻ってみると、もう一つ意味があったことを思い出します。
1 目の見えないこと
2 他のものが目に入らず、理性的な判断ができないこと。また、そのさま。「恋は_」
どちらの映画も物事の本質や自分の本当の気持ちを見失っている人が登場し、二番目の意味について語っているように思えます。
座頭市もユィシアンも物事の本質や自分の本心を見ようと抗っています。そしてシャオジエのように”目のみえる”人も彼らと同じだと思いました。
余談
今回は『座頭市物語』、『光にふれる』の2作の映画を取り上げ、「目が見えない」ということについて書いてみましたがどうだったでしょうか?
自分もブログを書くときについつい余計な情報を入れたくなって、本筋が見えなくなってしまいます。
話の筋を通して、さらに作品の魅力を伝えることは難しいものですね。笑
長々と書き連ねていますが、書き始めてからどうしても気になることがあります。
目が見えない人はどうやって映画を楽しむのか?
視覚障害がある高田鶏次郎さんは映画を見ることについて、このように言及しています。
映画を見ていて、映像だけで表現されている部分が多いので、その場合はストーリーから判断して勝手に想像するか、無視するかあきらめるしかありません。
「映画監督を目指す青年からの手紙」−−”目が見えないこと”と”映像”の関係は?
映画はラジオドラマのように音だけで物語を伝えるものではないので、目の見えない人にとっては楽しめるものではないのかもしれません。
ただ、映画を作る側はこのようなことに無頓着というわけではないようです。
『光にふれる』のDVDにはバリアフリーモードなるものがあって、音声解説がついていました。
自分は一度見終わったあとに、目を閉じて音声解説ありの映画を鑑賞してみたのですが、音声による場面の説明が入っている程度で、役者の声(字幕が見れないので吹き替え)や音楽、環境音で想像してみるということにあまり変わりはないように感じました。
しかし、2013年に愛知県の映画館「コロナワールド」に4D映画というものが導入されました!
椅子がシーンに合わせて動いたり、風、水(ミスト)、香り、煙など、五感で映画を体験できる新しい映画館のようです!
複雑な展開をする映画だとさすがに視覚的な補助がないと映画を楽しむことは難しいかもしれませんが、単純な映画であれば4D映画でより多くの人が楽しめるのではないかなと思いました!
あとはこのブログの第三回でトムが紹介していたように
2015年に見たい!SF映画2選!(『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』、『トランセンデンス』)- 映画ブログ第三回 - KSC CINEMA
未来で、脳に映画を直接ダウンロードして楽しむことができれば、目の見えない人も同じように映画を楽しめる時代が来るのではないでしょうか!
それではこのへんで!
ケン(@90matsu)2014.2.3
大人になってから気づくトイストーリーの魅力(映画ブログ第四回『トイストーリー』批評と『トイストーリー3』のすすめ)
こんばんは,ミヤです.映画ブログも二周目に入りました.先週日曜日更新のはずが1週間も遅れてしまいました.すいません.
さっそく書いていく前に,前回のブログを読んでくれたみなさん,ありがとうございました!案外いろいろな友達が読んでくれていて,とても嬉しかったです.
今回僕が選ぶ映画は『トイストーリー』と『トイストーリー3』!!なぜなら大好きな作品だからです.他の誰かに大好きな作品を先に取られたくないので,僕は思い入れのある作品からできるだけ書いていきたいと思っています.
今回のブログでは,トイストーリーシリーズ最初の作品『トイストーリー』から,トイストーリーという物語の設定が持つ魅力を考えてみようと思います.そしてそれを通じて,今のところの最新作『トイストーリー3』がいかに面白い作品か,ということを伝えたいと思います.『トイストーリー3』に関しては,ネタバレ無しで最後に触りだけ書きます.『トイストーリー』に関しては,観た人も多いと思うので,完全にネタバレします.
では『トイストーリー』の概要を確認しましょう.
まずこの作品は,何と言ってもフルCGアニメーション作品を初めて長編映画として劇場公開した,ということが偉大な作品です(Wikipediaにも書いていますし字多丸さんも『トイストーリー3』評の冒頭で熱く語っています)。この点は作品内容に入っていく前に書いておかなければいけないでしょう。
では次にあらすじを確認しましょう.このお話は,アンディという子どもの持っているおもちゃたちが主人公です.彼らには心があります.そしてそのことをアンディは知りません.アンディの昔からのお気に入りのおもちゃウッディと,誕生日のお祝いでプレゼントされて新しくお気に入りになったバズが,おもちゃを破壊することが趣味のシドという子どもに捕まってしまい,そこからアンディの元へ帰ってくる,というのが大まかなお話です.
この作品,小学校の頃毎日一緒に下校していた友達の家で何度も何度も観たのを今でも覚えています(日本での劇場公開が1996年なので,おそらく1997年頃として僕が8歳の時とかになるのでしょうか).
そのころは,キャラクターたちのハイテンションなやりとりや,おもちゃを破壊しまくっているシドを懲らしめるためのアイデア,シドの家から脱出する際のやっぱりハイテンションで大袈裟なリアクション,そんな部分が大好きでした.
でも大人になって『トイストーリー3』(2010)を観たとき,そして3を観たことをきっかけにして『トイストーリー』を観直したとき,全然違う部分で面白いというか感動を覚えました。それを書いてみたいと思います.そしてそのポイントが,このシリーズが大人の鑑賞にも耐えられる,というか普通に面白い感じる(なんなら人間ドラマとして結構深い部分を突いた作品たらしめている)要因なんだと思うわけです.
あまりひっぱってもハードルが上がるだけなので,先に言ってしまうと,その魅力とは“友情”です.そんなの作品の主題歌(「君はともだち」)にもなっているし,改めて言うことでもないだろ!と思われるかもしれません.そう思う人には,この先もしかしたら退屈な文章になってしまうかもしれません.
でも小学生の頃の僕も,この『トイストーリー』で,最初は仲良くなかったウッディとバズが仲良くなっていって相棒になっていく,そんな物語を観て,信頼できる友人って素晴らしいんだ!くらいは感想として持っていました.
しかし大人になって観直して,とてもハッとさせられたのは,“友情”をテーマにしながらこの作品で描かれているのは,基本的に「対等ではない関係」なんです。これにびっくりしたんです.
トイストーリーで描かれるのは,おもちゃ達と持ち主の“友情”,そしておもちゃ同士の“友情”です.そしてよく考えれば当たり前なんですけど,ここに対等な関係は存在してないんです。おもちゃ達と持ち主(アンディ)の関係を考えると,おもちゃは持ち主を基本的に選べないのに対して,持ち主はおもちゃを選べます。だからおもちゃ達は常に「捨てられること」を不安に思っています.おもちゃ同士の関係を考えてみても,持ち主(アンディ)に特別に気に入られているおもちゃとそうでないおもちゃ,といったように序列があります.しかもそれは,おもちゃたちの意思とは全く関係なく決められてしまう序列です.こういった設定のなかで“友情”を描く,ということがこの作品の最大の魅力だと少なくとも大人になった僕は感じています.
『トイストーリー』のストーリーに沿って確認していきましょう.まずウッディから見ていくと,彼はアンディの一番のお気に入りのおもちゃでした.しかしアンディが誕生日プレゼントで貰ったバズに夢中になってしまうことで,彼はバズに嫉妬します.ウッディ側から見ると,このお話は嫉妬心を乗り越えるお話なわけです.
次にバズです.彼は自分がおもちゃであるということを自覚していません.自分のことを本物のスペースレンジャー(ザーグが企む宇宙征服の野望を食い止めるために選ばれた正義の宇宙防衛隊,だそうです)だと思っているのです.しかし彼はシドの家で偶然CMを目撃してしまい,自分が持ち主すら選べない交換可能で汎用なおもちゃという存在であることを知ってしまいます.バズ側から見ると,このお話は「自分がおもちゃであること」ことを受け入れるお話なわけです.
たしかにバズの方は,少し乱暴に描かれてしまっている感は否めません.直接的には足の裏の“Andy”というサインを見て,持ち主からの愛を感じることで「自分がおもちゃであること」を受け入れます.相手の愛を感じて,自分という存在を受け入れる,そんなやや平板な話になってしまっています(こんな評も頷けます).でもウッディの方は,(個人的にですが)ほぼ完璧だと思います.
『トイストーリー』のラストでウッディは,シドの元から脱出して自分でアンディの元へ帰ります.アンディの元へ帰っても,一番のお気に入りのポジションはバズに取られてしまうかもしれません.また,バズへの嫉妬心から起こした行動で,他のおもちゃ達からの信頼も失っています.それでも,ウッディは自分でアンディの元へ帰ります.ここが重要です。つまり,それまで持ち主を選べないおもちゃと遊ぶおもちゃを選べる持ち主,という関係だったのが,ラストシーンではおもちゃが自分で自分の持ち主を選んだわけです.
だから,最後のシーンでまた新たにアンディにおもちゃがプレゼントされようとしている時のウッディには余裕があります。だって自分で選んだ相手と遊べているわけですから.また,自分で選んだ仲間が周りにいるんですから.もしいつかアンディに飽きられてしまっても,仲間がいます.しかも自分で選んだ持ち主なのだから,捨てられてしまってもそれはそれで仕方ないと思えます.清々しいですよね。そしてこんな気持ち,8歳の僕には理解できないものでしたが、大人になった僕には,とても共感(というか,“羨ましい”が正しいかもしれません笑)できるものでした.20年も生きていれば、友人を選んだり、恋人を選んだり、その相手にも自分を選んでもらえたり、選んでもらえなかったり、、そんな気持ちを伝えられたり伝えられなかったり、、いろいろありますよね笑 はい、僕はあります。なのでウッディに感情移入してしまうんです。ウッディのアンディへの気持ちが報われますように!そんな気持ちになるわけです。
あからさまに対等ではない“おもちゃと人間”という関係性だからこそ,現実の人間関係における相手を選んだり相手に選ばれたりといった部分の象徴として、観る方はより読み込んでしまうわけです。
これがトイストーリーという物語の設定自体が持つ魅力なんだと思います。では最後に『トイストーリー3』の話を少しだけしたいと思います.
『トイストーリー3』の魅力は何と言っても、アンディが大学生入学を控えているほどに成長してしまっている、という点にあります。時間の経過を使うことで、時間とともに成長する人間と時間が経っても成長することはないおもちゃ、という再び対等ではない関係になってしまうのです。だからやっぱり、おもちゃ達は「捨てられるかもしれない」とまた不安になります。さあ大人になったアンディはおもちゃ達のことをどう思っているのでしょうか??
そしてそして3の魅力として絶対に欠かすことができないのは、悪役のおもちゃ(名前は伏せておきます)です.このおもちゃは,絶対に人間や他のおもちゃと信頼関係を築こうとしません.それは過去に持ち主とピクニックに行った先で忘れて帰られてしまい,長い道のりを持ち主の家まで帰った(こいつもちゃんと1のウッディと同じように、物理的に離れても同じ持ち主を選んだわけです)ときには,時既に遅く,持ち主はもう新しい同じおもちゃを持っていてそれと仲良く遊んでいるところを目撃してしまう(持ち主の方は選んでくれなかったわけです)という経験をしたからなのです。その経験を経て,おもちゃに特定の持ち主がいない方が,捨てられる悲しみも不安も感じずに済むから良いんだ,というように考えるようになったのです.大切な関係ほど代わりのものが必要という,非常に繊細な部分も描かれていますし,これまでに述べたような設定がしっかりと活かされて生まれた悪役だと思います.
こういったキャラクター達が、最終的にどんな仲間を選び,どんな持ち主を選ぶか,そんな目線で観てみてください.もしくは観返してみてください.すべてしっかりと描かれています.
月並みな表現でしたが、『トイストーリー3』まだ観ていない人、特に1は観たけど3は観ていないという人がこのブログを読んで「3を観てみたい!」と思ってくれたら嬉しいです。前回ブログで長いとの指摘をたくさん受けたのですが、また長くなってしまいました。読んで頂いてありがとうございました!