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男は黙ってモヒカン!

映画ブログ第一回(リチャード・リンクレイター監督作品『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』評)

 はじめまして、これから映画についての文章を4人で、週交代で1本ずつ書いてみようということになりました。その第1回目を務めるミヤです。よろしくお願いします。

 計算の上では、これから映画についての文章が年間約50本ならびます。5年続けば250本、50年続けば2500本の映画についての文章が揃うことになります。もっと人が増えてたくさん集まるようになるのも良いですね。

 でもまあ、いつまで続くでしょう…(笑)しかも4人で。もしかしたらすぐに僕が抜けて来年の今頃には3人になっているかもしれません。

 

 さあ、そんな映画ブログの記念すべき第一回目…何を書くべきでしょうか。

 あとから読み返して、ああ恥ずかしいと思うのか、それともあの頃に戻りたいとか思うのか…。誰の、どの作品について書けば良いのか…。

 

 そんなことを考えていて、何の映画について書こうか、なかなか決まりませんでしたが、実はちょうど今ある映画を観終わったところで、この映画について書こうと決めました。この映画が終わる10分程前に、自然と文章を書き始めていたからです。その時僕は、”人間とは、「今」が「過去」になっていくことを認識している動物なんだ”という言葉が浮びました。

 

 僕が観た映画はリチャード・リンクレイター監督の『ビフォア・サンライズ』(1995)です。ちなみにここからはネタバレを含みます。

 

 この映画は、今夜しか会えないことが分かっているアメリカ人学生ジェシーと女学生セリーヌの二人が、恋に落ちるお話です。

 ここに出てくる二人は、お互いに惹かれ合っている「今」が、「過去」になってしまうことを理解しています。理解しているがゆえに、その「今」の扱い方が分からなくなってしまう二人なのです。「今」肉体関係を持ったら、それが「過去」になった時に辛く思い出されるものになってしまうのではないか、セリーヌのそんな心の揺れや、ジェシーが、2人が惹かれあっている「今」を永遠に取っておきたいと話す場面、写真にとっておきたい、という台詞などなど。「今」を愛おしく思えば思うほど、「今」が「過去」になってしまうことが恐ろしく感じられてしまい、愛おしいはずの「今」をどう振る舞えば良いのかが分からなくなってしまう、そんな2人のお話です。でもまあ結局、それこそ夢のような一夜を過ごして二人は別れます。ここでこの映画は終わります。

 この「夢」の行方は、続編で描かれます。この作品の9年後の2004年に、作品の中でも9年が経った後の二人が再会を果たす続編『ビフォア・サンセット』(2004)が公開されます。そしてさらに9年後には、やはり作品の中でも9年が経っていて事実婚して、双子の子どもまでいる二人の夫婦喧嘩を描いた『ビフォア・ミッドナイト』(2013)が公開されました。(あらすじは、このブログが詳しいかもです。)この3作を第1回ブログで取り上げる作品にしたいと思います。

 

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 ちなみにこの『ビフォア・サンライズ』は「劇場公開からビデオ発売までの邦題は『恋人までの距離(ディスタンス)』だったが、『ビフォア・サンセット』が公開されると、それまで発売されていなかったDVDのリリースが決定し、新しいタイトルとして『ビフォア・サンライズ~』に改題された」(恋人までの距離 - Wikipedia)そうです。当初はシリーズ化する予定はなかったんですね。

 

 この3つのビフォアシリーズ。魅力は何と言っても2人の会話です。むしろこれらの作品は2人の会話しか中身がほとんどないといっても過言ではありません。そして会話がどこへむかっているのか、先の展開がわからない、という点でアクション映画やミステリー映画、サスペンス映画よりも本当にスリルがあります。長回しで二人の会話をずーっと撮るという手法もそのスリルを引き立てているし、さらに現実世界の会話(当然これには複数のショットもないし全部1テイクなわけです。)そのものを見せられているかのように思えるという演出になっています。 もちろん二人の会話は、自然に見えるといってもよく計算されたものになっていて(これは宇多丸さんの「ムービーウォッチメン『ビフォア・ミッドナイト』評」に詳しいです)、僕がとても気にいっているシーンで言えば、例えば一作目『ビフォア・サンライズ』で「タイムマシーンに乗って未来から来たとして、今日のことをやりなおせれば…」って思っていると思って付いてきなよ、みたいなことを言ってジェシーセリーヌを電車から連れ出します。そして三作目『ビフォア・ミッドナイト』で喧嘩から仲直りするシーン。ここでもジェシーは、82歳になったセリーヌからの手紙を持ったタイムトラベラーのジェシーを演じながら、説得にかかります。

 こんなふうに台詞が本当にしっかり構築されていて、さらにその台詞ひとつひとつが「時間と変化」という作品のテーマを一貫して語り続けている、そんな素晴らしい作品なわけです。

 

 思えばリンクレイター監督の撮る映画には、「今」を永遠にとっておきたいと思ってしまう人間や、一歩進んで「今」を愛おしく思ってしまうがゆえに「未来」をある種諦めている人間が常に登場します。最新作『6才のボクが、大人になるまで。』(2014)の主人公も、写真にハマります。『バッド・チューニング』(1993)でもラストシーンで、夜通しマリファナで遊ぶ少年たちは、「この日々を振り返ったとき言いたいことは…精一杯やったさ」くらいのものだったと既に自覚しています。

 このビフォアシリーズでも、ブログ冒頭でジェシーセリーヌが惹かれあう由に、それが「過去」になっていってしまうことへの恐怖が描かれていると書きましたが、その他の監督作品と同様に、「今は素晴らしい、けどずっと続くものじゃないことが分かってしまっている」という「冷め」が、根底に描かれています。でも僕は、監督がその「冷め」をはっきりと描いて、各作品で「人生なんて上手くいかないものだよ」っていうメッセージを発しているわけではないと思うし、このビフォアシリーズもそうだと思います。そしてそこがこの映画の好きところなんです。では、このビフォアシリーズ3部作(まだまだ続きがあるかもしれませんが…)、この映画から僕が感じたことを書いていきたいと思います。

 僕は、最初にこのビフォアシリーズを観終わった時に、THE BLUE HEARTSの「年をとろう」という曲を思い出しました。


年をとろう - YouTube

 

 「過ぎて行った時が まるで永遠に続く土曜日の夜ならば 今日は何曜日なのだろう」

 

 ロックに打ちのめされて、興奮して、情熱を滾せて、世界を変える夢をみた、そんな日々が「永遠に続く土曜日の夜」のように最高の日々だったように思えてきてしまった。じゃあ「今」は一体「何曜日なのだろう」?無限の可能性や夢を見れた「土曜日の夜」が、それ自体が最高にロックだった、そしてそんな若かった日々はもう過ぎてしまった。(作詞作曲のマーシーはこの時31歳)全くの拡大解釈かもしれませんが、そんな諦めがこの歌には描かれているんだ、と僕は思うんです。

 

 でも歌詞のつづきに、こうあります。

 

 「過ぎて行った時が 夢まで連れていったら それは悪いことじゃない もっと強い夢が見れる」「年をとろう」「俺のシッポにまた火がついた」

 

 最高の日々は終わってしまった。もう老いていくしかない。憧れたロックは若者のものだから、もう自分は全然ロックじゃない。でも、そんな「夢」のような日々があったからこそ、「もっと強い夢が見れる」気がするじゃないか!「年をと」るのも悪くない。「シッポにまた火がつい」てきた!と、この歌には、そんな諦めと情熱の二つが歌われているんだと思うんです。

 

 リンクレイター監督も、現在のところの最終作『ビフォア・ミッドナイト』では、さっきシーンを挙げたように、「未来」のセリーヌの言葉で、ジェシーセリーヌを説得する結末を用意しています。一番夢に見ていたお互いを、紆余曲折経た末に選んだにも関わらず、夫婦関係は上手くいきません。恋に落ちて、「未来」を夢みることができた出会いたての『ビフォア・サンライズ』のころが、どう見ても二人の最高の時でした。でも、最後のシーン、ジェシーはその「夢」を一緒に見たのは「僕なんだよ」と言うんです。そして、それでも「これからが人生の黄金期」と振り返ることができるそんな「未来」が用意されているよ、という設定の寸劇をジェシーはするのです。そして、セリーヌはバカ女の役でその寸劇に乗るのです。大半の未来なんてしょうもない、そんなこと分かりきっているのに、それでも未来を信じる劇に興じるのが人間だ、このラストシーンを見てそんなことを感じます。そして、それってそんなに悪くないんじゃない?というような気がする映画なのです。悪くいえばそこまで含めて「冷め」ているようにも感じることもできるわけなのですが。なんてたってTHE BLUE HEARTSの「シッポにまた火がついた」ように、セリーヌが「最高の夜になりそうね」と言って終わるんですから悪くないはずです。

 2人の会話は、お互いが予想もしてなかったことを言ったりします。そのひとつひとつに、生き生きとした反応が描かれています。人生なんて大したものではないかもしれない、でも一瞬一瞬、予想だにせぬことが起きるし、そんなに退屈なものでもないでしょうと、この映画を観ると、やっぱりそんな風な気持ちになれるのです。人と生きる人間の、可愛らしさがたくさん詰まった傑作だと思います。

 

 さて、つらつらと書いてきましたが、『ビフォア・サンライズ』が終わる10分前に「書きたい」と思ったことと、今ここに「書いた」ものは一致しているのでしょうか。映画を観ていた「今」は、もう「過去」になってしまったので確認することはできません。なんかズレていってしまったような気もします。「あぁ、このシーンは、この台詞は、一生大切にしたい」そんなことを思っても、その翌日に忘れてしまっていることの方が正直多いです。結局そんなようなものなのでしょう。それでも、映画を観た瞬間に受けた感動を「永遠にとっておきたい」と、4週間に1度でもそう思えれば、このブログは記事が溢れて続いてゆくのではないでしょうか。そしてそうやって続いていくことができれば、それは大したものにはならないかもしれませんが、予期せぬ映画との出会いがあったりして決して退屈なものではないのではないでしょうか。

 どうでしょう、映画ブログ第1回としてとても良いオチがついたのではないでしょうか。では4人の映画談義のはじまりはじまり〜。また来週!