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映画ブログ第二回(吉田大八監督作品『桐島、部活やめるってよ』評)

明けましておめでとうございます。


映画ブログ第二回!
前回はリチャード・リンクレイター監督の「ビフォアシリーズ」でした!
『ビフォアサンセット』の最後のイーサンホークの表情最高ですよねー


映画ブログ第一回(リチャード・リンクレイター監督作品『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』評) - KSC CINEMA

 


今回は四人の中の二番手、ケンです。お願いします。

第二回で取り上げる映画は吉田大八監督の『桐島、部活やめるってよ』('12)です。

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題名だけは公開されたときから知っていて
公開後だんだん評価が高まっていくのを耳にしていたし、ロングランが決定したことも覚えているけれど、映画館に足を運ぶことはなかった作品。

見たこと無い人も一度は題名を聞いたことがあるんじゃないでしょうか?

自分は結局、この作品が日本アカデミー賞で作品賞をとり、一般的な評価が固まったところでレンタルDVDを借りに行きました。

吉田大八監督の作品は友達に紹介されたり、たまたま借りたりして全部見ていて

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』('07)
クヒオ大佐』('09)
『パーマネント野ばら』('10)
(現在公開中の『紙の月』('14)も見ています。)

特に『パーマネント野ばら』には思い入れが深くて、ロケ地の高知がすごく良い雰囲気を出しています。今回取り上げた桐島も同じく高知がロケ地になっています。

実は一度目に見たときはあまりわからなかった作品だったのですが、二度目の鑑賞でそれぞれの人物の心情や、何が起こったのかをようやく掴めた感じがしてこの作品の魅力に取り付かれました。
何気ないシーンだと思って、気を抜いてみているとのちのち重要なシーンの伏線だったりするので、一回目の鑑賞では何が描かれているのか分からなくなるのかもしれません。

今回「桐島、部活やめるってよ」を取り上げようと思ったのはちょうど二週間前くらいに友達と話で盛り上がったからで。先輩や他の友達とも幾度となく話したのに、話すたびに新しい発見があるし、いろいろな人の捉え方を知るのが楽しい、そんな感じの作品で、気づいたらBlu-rayと文庫を買って、ブログを書くために一週間ずっと桐島漬けでした。『桐島、部活やめるってよ』の一つの捉え方だと思って読んでいただければいいと思います。以下ネタバレを含みます。

 

あらすじ
金曜日。新作の撮影に取りかかる映画部の前田と武文。放課後バスケをしながら桐島を待つ野球部幽霊部員の宏樹とその仲間たち。桐島、宏樹の彼女たちのグループ。宏樹に思いを寄せる吹奏楽部部長、沢島。桐島がキャプテンを務める男子バレー部のメンバー。それぞれがそれぞれの日常を送っている時、そのニュースは伝わる、「桐島、部活やめるってよ。」学校にかすかな変化が起き始める。

 

この金曜日のニュースが流れて、桐島に関係している人間の動揺が、桐島とは関係ない人物にまで影響を及ぼしはじめます。

 

まず、確認しておきたいことは、なぜ、桐島が部活をやめるからといって学校に影響が及ぶのか?ということです。
桐島はバレー部のキャプテンで、県選抜にも選出されるような人物です。さらに、桐島の彼女は学校の中では匹敵する人がいないほどの美人。部活の終わりにいっしょに塾に行くために待っていてくれる友達もいます。スクールカーストで例えれば、ピラミッドの頂点に立つ、学校最高位にいる人物です。

そんな桐島が県選抜にも選ばれていて、全国出場も夢ではないバレー部をやめるというニュースが流れれば、学校中の噂になるわけです。
さらに、桐島が部活をやめてから、一度も学校に来ないために、噂がどんどん広がり、様々な憶測を呼ぶことになります。学校にも来ない、電話にもでない、メールも返ってこないので、誰も確認することができないのです。

当然、このような立ち位置にいる桐島が急に部活をやめて学校に来なくなることで直接影響がでる人たちがいます。

桐島がキャプテンを務めるバレー部。塾にいっしょに行くために桐島を待つ友達グループ。桐島の彼女。

彼らにとって桐島は日常生活を送る上で欠かすことのできない重要な歯車のようなもので、桐島という存在が彼らの行動原理にもなっています。なので、桐島がいなくなると、彼らは今までとは違う生活を送らなければならないのです。

しかし、学校には様々な人がいるので、いかに桐島が学校最高位に君臨する人物だとしても、桐島とはまったく接点を持たずに学校生活を過ごしている人たちも当然います。

その非桐島関係者グループの代表格が映画部のメンバーです。桐島が部活をやめたからといって、彼らの今までの学校生活が変化することはありません。今までと同じように映画を撮り、教室の端のほうで映画秘宝を読みながら映画の話題で静かに盛り上がるのです。

 

様々な立場のグループや人物が登場する中で、物語のメインの人物は二人です。

 

【菊池宏樹(東出昌大)】:桐島関係者グループ

野球部幽霊部員。桐島の親友で、桐島と塾に行くために放課後バスケをしながら待っている。高身長イケメンで、スポーツ万能。沙奈(帰宅部)という彼女がいるが、吹奏楽部の沢島にもひそかに恋心をよせられている。野球部の練習には長いことでていないが、なぜか野球部の部活鞄で登校している。

 

【前田涼也(神木隆之介)】:非桐島関係者グループ

映画部部長。映画甲子園で一次予選を通過した作品のタイトルを全校集会で笑われる。低身長で眼鏡をかけてクラスではあまり目立たない存在。スポーツは全くできず、彼女もいない。密かに中学校からの同級生である東原かすみに好意を抱いている。現在は新作の『生徒会・オブ・ザ・デッド』というゾンビ映画の撮影に取り掛かっている。

このように、この二人は対照的な人物として描かれていて各グループの代表者という見方もできます。

 

 

じゃあ二人ともこの話の主人公なのかと言われるとそれは少し違うと思います。

映画のパッケージや主演としては神木隆之介が演じる前田が主人公なのですが、映画が誰の気持ちの揺らぎを追っているかというと、前田ではなく宏樹の気持ちの方を追っています。つまり宏樹の気持ちが主題となっていています。

 

そして、なぜ、彼(宏樹)の心は揺らぐのか。これが原作の核であり、この映画が表現しようとしているテーマになります。


宏樹は野球部の幽霊部員で練習にでていないので、学校での立ち位置は帰宅部でも部活動生でもなく、桐島の親友というポジションです。その桐島がいなくなったことで彼は自分の立ち位置を否応なしに考えさせられることになります。

そして、今まで何となく流していたことが全て宏樹に疑問を投げかけてきます。

宏樹の彼女である沙奈は彼にかまってもらいたくてしかたがありません。沙奈は宏樹の彼女という立ち位置、学校での自分の居場所を守るために必死な子です。今までは何とも思っていなかったのに、桐島がいなくなってから沙奈の姿が自分の立ち位置を見ているようで、彼女と今まで通りに接することができません。

野球部のキャプテンは宏樹に会うたびに、声をかけてくれ、練習試合に誘ってくれていました。今までは自分の実力を買って誘ってくれていると思っていたけれど、キャプテンが夜遅くまで素振りをしているのを見て、これだけ野球に一生懸命取り組んでいる人が本当に自分に出場してほしいと思っているわけがない、いまだに野球部の鞄で学校に来ている自分のことを気遣って言ってくれていたんだということに気付くのです。宏樹は素振りを終えて帰ろうとするキャプテンから隠れてしまいます。

 

金曜の「桐島、部活やめるってよ」を発端に、宏樹は今まで表面化していなかった問題にさらされます。しかし、彼はその問題にうまく向き合うことができません。

そして火曜日に桐島(らしき人物)が屋上に表れたことで、彼は自分の立ち位置が揺らいだ原因と向き合わなくてはならなくなります。

 

火曜の放課後、桐島関係者グループは「桐島が屋上にいた」という情報を得て、桐島を追って屋上に集結します。

しかし、そこには桐島の姿はなく、ゾンビ映画を撮影している映画部がいるだけでした。桐島側は桐島がいないショックで、映画の撮影などお構いなしにふるまいます。そして映画の小道具を壊したことをきっかけに、映画部前田が反旗を翻し、ゾンビになった映画部が桐島関係者グループを襲い始めるのです。

実際にはすぐに鎮圧されてしまうのですが、この反逆によって桐島騒動に区切りがつき、桐島に踊らされた桐島関係者グループは日常の生活に戻っていきます。

普段気にも留めない前田にあれだけ桐島関係者グループが食って掛かったのは、前田に、桐島に踊らされている馬鹿らしさを指摘されたからでしょう。

その指摘は桐島関係者にとって図星でした。宏樹だけじゃなく、多くの桐島関係者が桐島に居場所を求めてきたからです。

 

宏樹は屋上に来るまで桐島に会うことで何か自分が感じている違和感やもやもやの原因が見つかるのではないかと思っていました。
肝心の桐島は屋上にはおらず茫然としてしまうのですが、おそらく桐島がいても答えは見つからなかったでしょう。

桐島に答えを求めても、この問題は解決されないからです。

しかし、屋上で映画の撮影に真剣に取り組む映画部前田の姿に、宏樹は彼なりの答えを見つけました。

 

前田は宏樹とは対照的な人物として描かれています。クラスの隅っこで、同じ映画部の武文と映画の雑誌を見たり、授業中に次回作のカット割りを考えたり、彼は桐島が部活をやめたからといって、何かが変わることはありません。体育の時間で活躍してスターになれなくても、放課後に女の子グループに笑われても、前田はいい映画を作るために一生懸命試行錯誤するだけなのです。

 

そんな前田に宏樹が見出した答えは、

前田にとっての映画のように、自分には一生懸命に取り組むことができる何かを持っていない。

ということでした。

桐島がいなくなってからずっと逃げていた宏樹は初めて自分が感じている違和感やもやもやと向き合います。

そして屋上に落ちていた8mmフィルムカメラのレンズフードを拾って、前田に声をかけるのです。

宏樹は前田が持っていた8mmフィルムカメラを手に、インタビューをします。

宏樹「将来は映画監督ですか?」

前田「うーん、どうかなあ」

宏樹「女優と結婚ですか?」

前田「ええっ?いやあーうーん..」

宏樹「アカデミー賞ですか?」

 

前田「...うん..でもそれはないかな。映画監督は無理」

 

宏樹は呆然としてしまいます。

彼と対峙することで、自分が見つけた答えを確かめることができると思っていたのに、これだけ映画に打ち込んで、夢に突き進んでいるようにみえた前田でさえも、その夢を否定してしまうのかと。

宏樹はどうして映画を撮っているのか尋ねます。

前田は、俺たちが好きな映画と今自分たちが撮ってる映画がつながってるなって思う時があって、と答えます。

宏樹は前田の言葉を受け止めきれません。
宏樹は自分と前田の“距離”を理解したと思っていました。しかし、現実は前田からもっと遠い位置に自分がいることを知ったのです。

最初は

好きなことを見つけてその夢を追いかけることができるグループ。
好きなことが見つからないグループ。

この二つに分かれていたと思っていたのに、さらにもう一つあったことに気付きます。

好きなことを見つけて、その夢までの距離を理解したグループ。
好きなことを見つけたグループ。
好きなことが見つからないグループ。

そして宏樹は好きなことが見つからないグループ、前田は好きなことを見つけて、その夢までの距離を理解したグループにいたのだと気付いたのです。

前田は8mmフィルムカメラを宏樹に向け、「やっぱりかっこいいね」とつぶやきます。

宏樹は今まで溜め込んでいた名前を付けられない感情がこみ上げてきます。
前田の何気ない言葉が彼を締め付けます。

彼には、自分はかっこいいだけで、中身のない空っぽの存在だと言われている気がしてしまうからです。

 

 宏樹は耐えられず、屋上から出て、また逃げてしまいます。そして現実から逃避するために桐島に電話をかけます。

しかし、携帯のコールがなり続ける中、宏樹は目の前で練習を続ける野球部の姿から目が離せません。そして電話をかけていることを忘れたかのようにグラウンドに釘付けになる宏樹の背中が映されたまま、映画は終わります。

 

この映画は普通の映画とは違って、暗転せずに、明転して(白い画面になって)映画が終わります。
明転の意味はおそらく宏樹は現実を受け入れることができたということでしょう。宏樹は桐島に居場所を求めず、今の自分を直視することができたはずです。

 

この映画は前田と宏樹の邂逅の瞬間に向かって進み、見事に宏樹の心の揺れを捉えました。

しかし、原作にはゾンビは出現しないし、屋上のシーンも存在しません、さらに言えば桐島が学校に来るという噂すら流れません。

では、なぜ吉田大八監督がゾンビを出現させる必要があったのか?これについて最後に書いていきたいと思います。

 

この作品では映画部が出てくることもあって、様々な映画が引用され
映画部の前田涼也(神木隆之介)と武文(前野朋哉)、前田と同じ中学校だった東原かすみ(橋本愛)によって語られています。

前田とかすみが偶然、映画館で出会った『鉄男』や
ザ・フライ』『エイリアン』『ボディスナッチャーズ』『遊星からの物体X』『スクリーム3』(2の方がよかった by 武文)『ダイアリー・オブ・ザ・デッド

(原作では『ジョゼと虎と魚たち』『チルソクの夏』『メゾン・ド・ヒミコ』『リリィシュシュのすべて』『ニライカナイからの手紙』『サマータイムマシンブルース』などなど。扱われている作品が原作と映画とで全く違う。でもこの変更は無くてはならなかった!)

そして
顧問が言う半径1メートルの現実的な青春映画を撮るか、
前田や武文にとって現実的なゾンビ映画を撮るか、
というシーンで出てきたジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』('68)。

 

この会話の中ででてきたジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』、これこそが屋上にゾンビを出現させることになった原因であり、原作の重要な核を演出するために吉田大八監督が導入した必要不可欠な要素なのです。

この作品の主な流れは以下の通り

①ゾンビ出現!
②一軒家に逃げ込む黒人1人、白人6人。ゾンビは全世界に出没している模様。
③黒人が主導権を握って避難所への脱出を試みる
④失敗してゾンビが家に侵入、白人は全員死亡
⑤人間側が盛り返し、政府によりゾンビ討伐隊が結成される
⑥唯一生き延びていた黒人は白人によって構成される討伐隊によって人間かどうか確認もされずに撃ち殺される。

この作品について監督が意図を話しているかどうかは分かりませんが、
見る側が最後のシーンの意味を考える時に、少なくともこの時代のアメリカの大統領は黒人じゃないなと考えてしまいます。
60年代どころか、それから50年経った現代でもこの作品のラストから想起される事件や差別は起こっていて、日本では昨年の二月に公開された『フルートベール駅で』でも無抵抗の黒人青年が白人警官によって撃ち殺された事件が扱われています。
ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はゾンビの出現という混乱によって、強者側である白人と弱者側である黒人が同じラインに立ちます。むしろ白人が頼りなく描写され、黒人がリーダーシップをとっている。しかし討伐隊が結成され、世界が日常に戻り始めると、黒人は簡単に殺されてしまう。ラストシーンは強烈にこの世界の現状を焼き付けさせます。

 

桐島では、最終日である火曜日が『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の流れを組んでいます。

 

①桐島らしき人物が屋上に出現
②屋上に駆け込む桐島関係者&『生徒会・オブ・ザ・デッド』の撮影でもともといた映画部
③映画部前田が反旗を翻し、強者側に楯突く
④映像の中でゾンビが屋上の人間を襲い全員死亡
⑤でも実際はそんなに世の中は甘くなく、ゾンビは簡単に制圧されてしまう
⑥宏樹は前田の姿に感化され8mmフィルムカメラのレンズフードを前田に渡し、前田と初めて会話をするが、自分の現状と向き合うことになる。 

 

このように『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の流れを追いかけることで、宏樹が自分の現状と向き合わなければならなくなっているのです。

吉田大八監督はこの作品に、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を組み込むことで、宏樹が自分と向き合う瞬間を実現しました。そして、そこで終わらずにその先の、”現実を突きつけられた人間がその現実にどう対応するのか”までを描ききりました。

現代の高校生の一つの視点では語れない現状を描いた素晴らしい作品だと思います。

一度映画を見れば、『桐島』の話で3時間は語れると思うので是非見てみてください~

 

最後に小話

前田のつけている眼鏡と武文の福耳は「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」の監督ジョージ・A・ロメロと同じ特徴になっています。映画部二人合わせてジョージ・A・ロメロを表しているんですね。吉田大八監督恐るべし。

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(神木君、全く似てません。すみません。)




最後まで、読んでいただきありがとうございました。
それでは、また!

ケン(@90matsu) 2015/1/6